龍安寺
简介
白砂に十五個の石を配しただけの方丈庭園は、枯山水の到達点として世界に知られています。どの位置から眺めても必ず一つの石が他の石の陰に隠れ、十五個すべてを同時に見ることはできません。作者も作庭年代も不明で、石が何を表すのかについても定説がなく、その解けなさこそがこの庭の力になっています。世界文化遺産。
历史
龍安寺は宝徳二年(一四五〇年)、室町幕府の管領・細川勝元によって創建された臨済宗妙心寺派の寺院です。
【創建(一四五〇年〜一四六七年)】
もとは徳大寺家の別荘があった地で、勝元がこれを譲り受け、妙心寺の義天玄承を開山に迎えて禅寺としました。勝元は応仁の乱で東軍の総大将となる人物であり、創建当初の龍安寺は有力武将の菩提寺として相応の規模を備えていたと考えられます。
【応仁の乱と再建(一四六七年〜一五〇〇年頃)】
応仁の乱の兵火によって伽藍は焼失しました。勝元の子・細川政元が明応八年(一四九九年)に方丈を再建します。石庭がいつ造られたかは、この再建時とする説が有力ですが、確証はありません。庭の石の裏に「小太郎」「清二郎」という名が刻まれていることが知られていますが、それが作庭者なのか石工なのかも判然としません。
【石庭という謎】
東西約二十五メートル、南北約十メートルの白砂に、十五個の石が五・二・三・二・三と配されています。塀の外の樹木を借景としながら、庭そのものには一本の草木もありません。虎の子渡しに見立てる説、心という字を表すという説、大海に浮かぶ島とする説など解釈は数多くありますが、寺は公式には何も定めていません。見る者に解釈を委ねる姿勢が、この庭を四百年以上のあいだ語り続けさせています。
【江戸時代(一六〇三年〜一八六八年)】
寛政九年(一七九七年)の火災で方丈をはじめ主要な建物を焼失し、塔頭であった西源院の方丈を移築して現在の方丈としました。この時も石庭は無傷で残っています。境内の茶室・蔵六庵前にある「吾唯足知」の四文字を刻んだつくばいは、水戸光圀の寄進と伝えられます。中央の水穴を口の字に見立て、四方の文字と組み合わせて読ませる意匠です。
【近代から現代(一八六八年〜)】
明治の廃仏毀釈で寺領を大きく減らしましたが、庭は保たれました。昭和五十年(一九七五年)にイギリスのエリザベス女王が公式訪問の際に石庭を訪れ、その様子が世界に報じられたことで国際的な知名度が一気に高まります。平成六年(一九九四年)、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
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