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薬師寺

4.3 (10 件の評価)
薬師寺

概要

天武天皇の発願により飛鳥に創建され、平城遷都に伴って現在地へ移された法相宗の大本山です。創建当初から唯一残る東塔は、各層に裳階を付けた独特の構成から「凍れる音楽」と評されてきました。金堂の薬師三尊像は白鳳彫刻の最高峰とされ、しなやかな体躯と穏やかな表情が特徴です。西塔や金堂は昭和以降に鮮やかな朱で復元され、創建当時の伽藍の姿が蘇りつつあります。

歴史

薬師寺は天武天皇九年(六八〇年)、皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って発願されました。

【飛鳥での創建(六八〇年〜六九七年)】

天武天皇は皇后の病が癒えることを祈って薬師寺の建立を発願しましたが、完成を見ずに崩御します。皇后は自ら即位して持統天皇となり、夫の遺志を継いで文武天皇二年(六九八年)頃までに藤原京の地に伽藍を完成させました。病を得た配偶者のために寺を建て、残された側がそれを完成させるという経緯は、法隆寺の成り立ちとよく似ています。

【平城京への移転(七一八年)】

和銅三年(七一〇年)の平城遷都に伴い、養老二年(七一八年)に薬師寺も現在地へ移されました。藤原京の旧寺(本薬師寺)と平城京の新寺のどちらが現存の建物かをめぐっては、移築説と新築説が長く論じられてきました。現在は新築説が有力とされていますが、確定はしていません。

【東塔という達成】

三重塔でありながら各層に裳階と呼ばれる小さな屋根を付けているため、一見すると六重に見えます。大小の屋根が交互に重なるこのリズムを、明治期に日本美術を研究したフェノロサが「凍れる音楽」と評したという逸話が知られています。ただしこの言葉を実際にフェノロサが述べたことを示す一次史料は見つかっておらず、後世の脚色とする指摘もあります。

【度重なる罹災(九七三年〜一五二八年)】

天禄四年(九七三年)の火災、享禄元年(一五二八年)の兵火など、薬師寺は幾度も伽藍を失いました。特に享禄の戦火では金堂、講堂、西塔、中門がことごとく焼け落ち、東塔と東院堂だけが残ります。以後四百年以上、薬師寺は東塔がぽつんと立つ寺として過ごすことになりました。

【昭和の白鳳伽藍復興(一九六八年〜)】

昭和四十二年(一九六七年)に管主となった高田好胤は、写経勧進によって伽藍を復興するという構想を打ち出しました。一巻千円の納経を全国に呼びかけたこの運動には数百万人が応じ、昭和五十一年(一九七六年)に金堂、昭和五十六年(一九八一年)に西塔、平成十五年(二〇〇三年)に大講堂が次々と再建されます。特定の大檀那ではなく無数の個人の少額の寄進で大伽藍を建て直した例として、戦後日本の寺院復興のなかでも際立っています。

【現代(二〇〇九年〜)】

平成二十一年(二〇〇九年)から東塔の全面解体修理が始まり、十二年をかけて令和三年(二〇二一年)に落慶しました。平成十年(一九九八年)、「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。

💬 コメント

伊藤裕子2026/6/19

唐招提寺まで歩いて十五分ほどです。両方合わせて回るのが定番のようで、道も分かりやすい。

佐藤恵子2025/12/3

写経で伽藍を再建したという話に驚きました。大きな寄付ではなく、一巻ずつの積み重ねであの規模を建て直したというのが。

渡辺誠一2025/8/22

東塔の解体修理が終わったあとに行きました。十二年かかったそうで、覆屋が外れた姿を見られてよかった。

坂本由美2025/6/3

東塔と西塔が並ぶ姿を見に来ました。片方は千三百年前、片方は昭和の再建で、色がまるで違うのが面白い。

福田友美2025/3/2

東塔は屋根が六つあるように見えますが、実際は三重塔です。裳階という小さい屋根が挟まっているのだと聞いて納得しました。

中村健一2025/1/24

お坊さんの法話が名物になっていて、思ったより砕けた語り口で面白かったです。

鈴木雅人2024/3/14

西塔の朱色は最初派手に感じましたが、創建当時はこちらが本来の色だと聞くと見方が変わります。

太田陽子2023/12/3

金堂の薬師三尊は、黒々とした肌に流れるような体の線があって、想像していた仏像とかなり違いました。

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