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鶴岡八幡宮

4.4 (10 件の評価)
鶴岡八幡宮

概要

源頼義が康平六年(一〇六三年)に石清水八幡宮を由比ヶ浜に勧請したのが始まりで、治承四年(一一八〇年)に源頼朝が現在地へ移しました。鎌倉の町は、この社を起点として若宮大路が海へ真っ直ぐ伸びる形で設計されています。参道の段葛は妻の安産を祈って頼朝が築かせたもの。大石段の脇にあった大銀杏は、実朝暗殺の舞台と語り継がれてきましたが、二〇一〇年に倒れました。

歴史

鶴岡八幡宮は康平六年(一〇六三年)の勧請に始まり、鎌倉幕府の宗社として栄えました。

【勧請と遷座(一〇六三年〜一一八〇年)】

前九年の役を平定した源頼義が、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に勧請したことに始まります。治承四年(一一八〇年)、鎌倉に入った源頼朝は小林郷北山の現在地へ社を移し、源氏の氏神として鎌倉の中心に据えました。

【鎌倉という都市の設計】

頼朝は社殿を町の北の高台に置き、そこから海へ向かって若宮大路をまっすぐに通しました。政治の中心である幕府と、信仰の中心である八幡宮と、海という三点を一本の軸で結ぶ設計です。参道の中央を一段高くした段葛は、寿永元年(一一八二年)、妻の北条政子の安産を祈願して頼朝自らが指揮して築かせたと伝えられます。武家の都市がこれほど明確な軸線を持って造られた例は、それまでの日本にありませんでした。

【実朝暗殺(一二一九年)】

建保七年(一二一九年)正月、三代将軍源実朝が右大臣拝賀の式のため参拝した際、大石段で甥の公暁に暗殺されました。公暁が身を潜めていたとされるのが石段脇の大銀杏です。これにより源氏の正統は三代で絶え、幕府の実権は北条氏へ移りました。ただし大銀杏が当時すでにあの大きさであったかは疑わしく、伝承の域を出ないとされています。

【神仏習合と明治の分離(一一八〇年〜一八六八年)】

中世を通じて鶴岡八幡宮寺と称し、境内には多宝塔や護摩堂が建ち並ぶ神仏習合の大寺院でした。明治の神仏分離令により仏教施設はことごとく取り壊され、僧侶は還俗させられます。現在の広々とした境内の景観は、このとき多くの堂塔が失われた結果でもあります。

【大銀杏の倒伏(二〇一〇年)】

平成二十二年(二〇一〇年)三月十日未明、樹齢千年ともいわれた大銀杏が強風と雪の重みで根元から倒れました。倒木は隣に移植され、切り株からは新たな若芽が育っています。倒壊後の調査で、樹齢は実際には数百年程度であったと推定されました。

【現代】

現在も鎌倉の中心として、初詣、流鏑馬神事、ぼんぼり祭などに多くの人が集まります。段葛は平成二十八年(二〇一六年)に大規模な改修を終えました。

💬 コメント

鈴木隆司2026/2/26

実朝が暗殺された場所だと聞いて、あの静かな石段にそんな歴史があったのかと驚きました。

太田友香2025/11/25

段葛を歩いて大石段まで向かう道のりが、そのまま参拝の一部になっている感じがします。頼朝が妻の安産を祈って造らせたと知ると、また違う目で見られました。

山本拓真2025/9/10

明治の神仏分離で多くの堂塔が壊されたと知って、今の広々とした境内の理由が分かりました。

佐藤浩二2025/4/4

大石段の脇に大銀杏の切り株があります。倒れる前の写真を見ていたので、実際にその場に立つと少し感慨深いものがありました。

渡辺翔太2024/7/9

若宮大路から一直線に社まで続く鎌倉の町の作りがよく分かります。頼朝が都市そのものを設計したというのが実感できました。

小林達也2024/7/1

鎌倉駅から歩いてすぐです。小町通りで食べ歩きしてから参拝するのが定番のコースになっています。

伊藤浩一2024/6/13

流鏑馬神事を見る機会がありました。馬が疾走しながら矢を射る様子は迫力があり、鎌倉らしい行事だと思いました。

加藤知子2024/1/22

源氏池と平家池が対になっているのが面白い設計です。源氏池には蓮が多く咲いていました。

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