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東大寺

とうだいじ

4.6 (10 件の評価)
東大寺

📍 所在地

奈良県奈良市雑司町406-1

📞 電話

0742-22-5511

🌐 公式サイト

https://www.todai-ji.or.jp/

🙏 ご本尊・ご祭神

大仏(盧舎那仏)

🏯 宗派

華厳宗

概要

奈良時代、聖武天皇の発願によって建立された華厳宗の大本山です。本尊の盧舎那仏坐像は像高約十五メートル、いわゆる「奈良の大仏」として知られています。大仏を納める大仏殿は木造建築として世界最大級。南大門に立つ運慶・快慶作の金剛力士像も見どころです。周囲の奈良公園には鹿が群れ、参道を歩く人々を迎えます。

歴史

東大寺は天平勝宝四年(七五二年)の大仏開眼供養をもって成立した、日本を代表する古刹です。

【大仏造立(七二八年〜七五二年)】

神亀五年(七二八年)、聖武天皇が夭折した皇子の菩提を弔うために建てた金鍾山寺が前身です。天平十三年(七四一年)の国分寺建立の詔により、東大寺は全国の国分寺を統括する総国分寺と位置づけられました。天平十五年(七四三年)、聖武天皇は大仏造立の詔を発します。飢饉と疫病、政変が相次ぐ中、仏の力によって国を安んじようとしたものでした。行基が全国を巡って寄進を募り、延べ二百六十万人が動員されたと伝えられます。天平勝宝四年(七五二年)、インド出身の僧・菩提僊那を導師として開眼供養が営まれました。

【平安時代(七九四年〜一一八五年)】

平安京への遷都後も東大寺は南都七大寺の筆頭として重んじられ、広大な荘園を有しました。学問寺としての性格も強く、多くの学僧を輩出しています。一方で寺勢の拡大は僧兵の力を生み、朝廷や他寺との対立の火種ともなりました。

【焼失と鎌倉再建(一一八〇年〜一三三三年)】

治承四年(一一八〇年)、平重衡による南都焼き討ちで大仏殿は焼け落ち、大仏も頭部と手が溶け落ちる壊滅的な被害を受けました。この惨状に立ち上がったのが重源上人です。六十歳を超えてから諸国を勧進して回り、宋の技術者・陳和卿の協力を得て、建久元年(一一九〇年)に大仏殿を再建します。このとき用いられた大仏様(天竺様)の建築様式は、現存する南大門にその姿を残しています。金剛力士像もこの再建期、運慶・快慶ら慶派仏師によってわずか六十九日で造られたものです。

【戦国から江戸再建(一五六七年〜一七〇九年)】

永禄十年(一五六七年)、松永久秀と三好三人衆の戦いによって大仏殿は再び焼失します。以後、大仏は雨ざらしのまま百年以上放置されました。元禄期に公慶上人が再興を発願し、庶民からの寄進を集めて宝永六年(一七〇九年)に大仏殿の落慶を果たします。財政上の制約から間口は創建時の三分の二に縮められましたが、それでも木造建築として世界最大級の規模を保っています。

【近代から現代(一八六八年〜)】

明治期の廃仏毀釈で寺領の多くを失いますが、伽藍は保存されました。昭和五十五年(一九八〇年)に昭和の大修理が完了。平成十年(一九九八年)、「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。二月堂で行われる修二会(お水取り)は天平勝宝四年以来一度も途絶えたことがなく、千二百年以上続く行法として今日まで受け継がれています。

💬 コメント

長谷川翔太2025/7/27

近鉄奈良駅から歩いてきましたが、道中ずっと鹿がいます。鹿せんべいを買ったら囲まれてしまいました。

藤田浩一2025/4/29

堂内は薄暗く、その暗さの中で大仏がいっそう厳かに見えます。フラッシュは焚かず、静かに立っているのがいいと思います。

中島友香2024/12/16

大仏は想像よりずっと大きかったです。真下から見上げると顎と掌しか目に入らず、あの大きさは数字では伝わりません。

遠藤知子2024/12/14

亡くなった父のために線香をあげに来ました。大仏の前でしばらく立っていました。うまく言えませんが、帰るときには少し軽くなっていました。

後藤拓真2024/12/4

七五二年の開眼供養には全国の銅が使われたと聞きました。あの時代にこれを成し遂げた、その運搬だけでも想像がつきません。

村上達也2024/3/19

秋に訪れました。二月堂のほうは人が少なく、奈良盆地を見渡せるので、ぜひ登ってみてください。

前田隆司2024/3/14

南大門の金剛力士像こそ隠れた見どころです。運慶・快慶の作で、筋肉や血管の彫りが恐ろしいほど細かい。

小川浩二2023/10/29

大仏殿の柱の穴をくぐると無病息災だそうで、子どもたちが列を作っていました。途中で引っかかる大人もいて、笑いが起きていました。

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