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天龍寺

4.4 (10 件の評価)
天龍寺

概要

暦応二年(一三三九年)、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した臨済宗天龍寺派の大本山です。開山・夢窓疎石が自ら手がけた曹源池庭園は、嵐山と亀山を借景に取り込んだ池泉回遊式庭園で、日本で最初に史跡・特別名勝に指定されました。創建から七百年近く、庭の姿は当初の設計をほぼそのまま伝えています。世界文化遺産。

歴史

天龍寺は暦応二年(一三三九年)、足利尊氏の発願により創建されました。京都五山の第一位に列せられた禅刹です。

【創建の経緯(一三三九年〜一三四五年)】

後醍醐天皇が吉野で崩じた際、夢窓疎石は足利尊氏に対し、天皇の菩提を弔う寺の建立を強く勧めました。尊氏はかつて後醍醐天皇に叛いて南北朝の分裂を招いた当人です。その天皇を弔う寺を建てるという行為には、鎮魂と政治的正統性の獲得という二つの意味が重なっていました。造営費用を捻出するため、元へ貿易船(天龍寺船)を派遣したことでも知られます。康永四年(一三四五年)に落慶法要が営まれました。

【曹源池庭園】

開山の夢窓疎石が自ら作庭したと伝えられます。池の対岸に龍門瀑を組み、鯉が滝を登って龍になるという故事を石で表現しました。特筆されるのは、嵐山と亀山という寺域外の山並みを庭の構成要素として取り込んだ点です。庭の境界を意図的に曖昧にすることで、限られた敷地に無限の奥行きを生み出しています。この借景の手法は後の日本庭園に決定的な影響を与えました。

【八度の火災(一三五八年〜一八六四年)】

天龍寺は延文三年(一三五八年)を皮切りに、記録に残るだけで八度の火災に遭っています。応仁の乱では主戦場に近く、伽藍はほぼ全焼しました。最後の被災は元治元年(一八六四年)の禁門の変で、長州藩がこの寺に陣を構えたため幕府軍の攻撃を受け、伽藍の大半を失っています。現在の建物の多くは明治期の再建ですが、庭園だけは八度の火災すべてを生き延びました。

【明治の縮小(一八六八年〜一九〇〇年頃)】

明治の上知令により寺領の大半が没収され、往時は塔頭百五十を数えた広大な境内は十分の一ほどに縮小しました。かつての境内地は現在の嵐山の観光地一帯にほぼ相当します。渡月橋も、もとは天龍寺の境内に架かる橋でした。

【現代(一九〇〇年頃〜)】

明治三十二年(一八九九年)に法堂が再建され、順次伽藍が整備されました。法堂の天井に描かれた加山又造筆の雲龍図は、平成九年(一九九七年)に開山六百五十年を記念して制作されたものです。どの位置から見上げても龍と目が合う「八方睨みの龍」として知られます。平成六年(一九九四年)、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。

💬 コメント

遠藤花子2025/6/16

曹源池庭園が想像以上でした。嵐山をそのまま庭の一部に取り込んでいて、どこまでが庭なのか分からなくなります。

高橋友香2025/1/28

渡月橋も元は境内の橋だったと聞いて、往時の広さを想像しました。今の十倍あったそうです。

鈴木さくら2024/11/9

後醍醐天皇を弔うために尊氏が建てた寺だと知ってから来ると、静かな庭の見え方が少し変わります。

伊藤浩二2024/6/21

精進料理をいただきました。庭を眺めながらの食事で、値は張りますが記憶に残ります。

青木雄太2024/4/5

夢窓疎石の作庭が七百年前のままだと聞いて驚きました。伽藍は八回焼けているのに、庭だけは残ったというのが不思議です。

太田麻子2023/10/26

北門を出るとすぐ竹林の小径につながります。この動線が便利で、嵐山を回るならまず天龍寺からがおすすめ。

福田奈々2023/9/26

法堂の雲龍図は、どこから見上げても目が合います。八方睨みというのは本当でした。公開日が限られるので確認してから行くといいです。

佐藤美咲2023/8/25

朝一番に入ったので、池に人影が映らず水面が鏡のようでした。庭を見るなら早い時間に限ります。

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