新薬師寺
概要
天平十九年(七四七年)、光明皇后が聖武天皇の眼病平癒を祈って創建したと伝えられます。奈良時代の建物として残る本堂は、円形の土壇の上に本尊薬師如来坐像を安置し、それを取り囲むように十二神将立像が立つ独特の構成です。塑造の十二神将は天平彫刻を代表する作で、憤怒の表情と激しい動きが一体ごとに違います。奈良市街の東、静かな住宅地の奥に建ち、訪れる人も多くありません。
歴史
新薬師寺は天平十九年(七四七年)、光明皇后の発願により創建されたと伝えられます。
【創建(七四七年〜七六〇年頃)】
聖武天皇が眼病を患った際、光明皇后が平癒を願って七仏薬師像を造り、寺を建立したと伝えられます。「新」は新しいという意味ではなく、「あらたかな(霊験あらたかな)薬師寺」の意とされます。創建当初は東大寺に匹敵する大伽藍で、金堂には七体の薬師如来が並んでいたと記録されています。寺域は現在の数十倍に及びました。
【落雷と衰退(七八〇年)】
宝亀十一年(七八〇年)、落雷によって西塔が炎上し、金堂をはじめ主要伽藍の大半が焼失しました。創建からわずか三十余年での大打撃です。国家の財政も奈良時代末期には逼迫しており、再建は往時の規模には及びませんでした。現在の本堂は、創建時の食堂または別の付属建物が焼け残ったものと考えられています。
【本堂という空間】
奈良時代の建物がそのまま残る貴重な遺構で、国宝に指定されています。外観は簡素な寄棟造ですが、内部に入ると天井を張らない化粧屋根裏で、小屋組がそのまま見えます。中央に円形の土壇を築き、本尊の薬師如来坐像を中心に十二神将像が円を描いて外を向いて立つ配置は、他に例がありません。参拝者は仏を取り囲む神将たちの背後から堂内に入ることになります。
【十二神将像】
奈良時代の塑像で、日本最古の十二神将像です。それぞれが憤怒の相を示しながら、姿勢も表情も一体ごとに異なります。もとは彩色が施されており、現在も部分的に顔料が残っています。うち一体の伐折羅大将は、その激しい形相から切手の意匠にも採用され広く知られるようになりました。十二体のうち一体は後世の補作で、他の十一体が天平期のものです。
【中世から現代(一一八五年〜)】
鎌倉期に華厳宗の僧・明恵らによって復興の手が入り、南門や東門、鐘楼が建てられました。以後は小規模な寺として静かに続き、大きな兵火に巻き込まれることもありませんでした。結果として、天平の本堂と塑像群が今日まで残っています。近年、境内の南側で創建時の金堂跡が発掘され、東西約五十メートルに及ぶ巨大な建物であったことが確認されました。
💬 コメント
奈良時代の塑像がこれだけまとまって残っているのは珍しいそうです。土でできているのに千三百年もっているのが不思議。
伐折羅大将の顔は写真で見たことがありましたが、実物はもっと大きく、迫力があります。
本堂に入った瞬間、円く並んだ十二神将に囲まれる感覚になります。仏像の背中側から堂内に入る配置が独特でした。
白毫寺や春日大社の南側から歩いて行けます。奈良の東側を静かに歩きたい人向けのコースです。
創建当時は東大寺並みの大伽藍だったと知って驚きました。今の静かな佇まいからは想像できません。
観光ルートから外れているので、人がほとんどいません。私が行ったときは堂内に他に二人だけでした。
十二神将は一体ずつ表情も構えも違います。全部見て回るとかなり時間が経っていました。
本堂の天井を張らない造りで、小屋組がそのまま見えます。簡素ですが、その簡素さが良い。
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