日光東照宮
概要
徳川家康を東照大権現として祀る神社です。元和三年(一六一七年)の創建当初は簡素でしたが、寛永十三年(一六三六年)に三代将軍家光が大規模な建て替えを行い、現在の絢爛な社殿群となりました。陽明門には五百を超える彫刻が施され、一日中見ていても飽きないことから日暮の門とも呼ばれます。眠り猫、三猿、想像の象など、細部に無数の意匠が隠されています。
歴史
日光東照宮は元和三年(一六一七年)、徳川家康を祭神として創建されました。
【家康の遺言と創建(一六一六年〜一六一七年)】
元和二年(一六一六年)、家康は死に臨んで「遺体は久能山に葬り、一周忌の後に日光山へ小堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守となろう」と遺言したと伝えられます。日光が選ばれたのは、江戸の真北にあたり、北極星の位置に重なるためとされます。翌元和三年、遺言に従って日光へ改葬され、東照社が創建されました。この時点の社殿は家康の意向どおり簡素なものでした。
【寛永の大造替(一六三四年〜一六三六年)】
祖父を深く敬慕した三代将軍家光は、寛永十一年(一六三四年)から二年五ヶ月をかけて社殿を全面的に建て替えます。動員された人員は延べ四百五十四万人、費用は金五十六万八千両にのぼったと記録されています。全国から集められた工匠が腕を競い、彫刻、漆、金箔、彩色のあらゆる技術が投入されました。簡素を望んだ家康の遺志とは正反対の結果ですが、この造営によって東照宮は徳川の権威を可視化する装置となりました。
【陽明門】
高さ十一・一メートル、五百八の彫刻が施された門です。中国の故事、聖人、子どもの遊び、霊獣などが層をなして彫り込まれ、見飽きることがないため「日暮の門」と呼ばれます。門を支える十二本の柱のうち一本だけが、グリ紋の向きが逆さに彫られています。建物は完成した瞬間から崩壊が始まるという考えから、あえて未完成の部分を残したもので「魔除けの逆柱」と呼ばれます。
【眠り猫と三猿】
東回廊の潜門にある眠り猫は左甚五郎の作と伝えられますが、確証はありません。猫が眠っていられるほど平和であるという解釈が広く語られる一方、裏側には雀が彫られており、猫が寝ているから雀も安心していられるとも、実は前足に力が入っており獲物を狙っているとも解釈が分かれます。神厩舎の三猿は猿の一生を八面にわたって描いた彫刻群の一場面で、「見ざる言わざる聞かざる」の部分だけが独立して有名になりました。
【近代から現代(一八六八年〜)】
明治の神仏分離により、それまで一体だった輪王寺・二荒山神社と分離されました。昭和後期から平成にかけて修理が続き、平成二十五年(二〇一三年)から令和元年(二〇一九年)にかけて陽明門をはじめとする「平成の大修理」が行われています。平成十一年(一九九九年)、二社一寺があわせて世界文化遺産に登録されました。
💬 コメント
陽明門の彫刻の数に圧倒されました。五百以上あると聞いて、一日見ていても飽きないというのが分かる気がします。
家康の遺言では簡素な社殿だったはずが、家光の代でここまで豪華になったという話を聞いて、権威を示す建築というものを考えさせられました。
三猿は思ったより小さな彫刻でした。有名な部分だけが独立して知られていますが、実際には猿の一生を描いた連作の一場面なのだと知りました。
石段を上って奥宮まで行くと、家康の墓所があります。手前の華やかさとは対照的に、こちらは簡素で静かでした。
二社一寺という言葉を初めて知りました。東照宮だけでなく輪王寺、二荒山神社も合わせて回ると一日がかりになります。
眠り猫を見に行きました。小さくて見逃しそうになりましたが、その先の階段を上ると別世界のような雰囲気の場所に出ます。
紅葉の時期は参道からすでに人が多く、陽明門の前は写真待ちの列ができていました。早朝に行くのがおすすめです。
逆さ柱を探しました。案内板がなければ絶対に気づかなかったと思います。あえて未完成にするという発想が面白い。
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