高徳院
概要
高さ約十一・三メートルの阿弥陀如来坐像、いわゆる鎌倉大仏を本尊とする浄土宗の寺です。奈良の大仏と異なり、この大仏は屋根のない露天に座しています。かつては大仏殿がありましたが、度重なる台風と津波で失われ、以後五百年以上そのままの姿です。像内に入って内部の構造を見ることができます。与謝野晶子が「美男におはす」と詠んだ横顔で知られます。
歴史
高徳院の鎌倉大仏は、暦仁元年(一二三八年)に始まる造立事業の到達点です。
【木造大仏から銅造へ(一二三八年〜一二五二年)】
『吾妻鏡』によれば、暦仁元年(一二三八年)に僧・浄光の勧進によってまず木造の大仏の造立が始まり、寛元元年(一二四三年)に完成しました。しかしこの木造大仏は数年で失われ、建長四年(一二五二年)から銅造の大仏の鋳造が始まります。現在の像がこれにあたるとみられますが、造立の主体が誰であったかを示す記録は残っていません。国家事業として造られた奈良の大仏と違い、鎌倉大仏は勧進によって集められた庶民の浄財で造られたと考えられています。
【鋳造の技術】
像は三十数段に分けて下から順に鋳継がれています。内部に入ると、その継ぎ目が横縞となってはっきり見えます。日本の鋳造技術の水準を示す遺構であると同時に、修理の履歴を読み取れる資料でもあります。像の姿勢は前傾しており、参拝者が見上げたときに目線が合うよう計算されているとみられます。
【大仏殿の喪失(一三三四年〜一四九八年)】
当初は大仏殿に納められていました。建武元年(一三三四年)と応安二年(一三六九年)の大風で堂が損壊し、そのつど再建されています。決定的だったのは明応七年(一四九八年)の地震です。このとき発生した津波が大仏殿を押し流し、以後、堂は再建されませんでした。露坐となってから五百年以上が経ちます。屋外に置かれ続けたことが、かえってこの像を鎌倉の象徴にしました。
【近世から近代(一四九八年〜一九二三年)】
江戸期には荒廃した時期もありましたが、正徳年間に増上寺の祐天らによって復興されました。明治期以降は鎌倉を代表する名所となり、多くの文学作品に登場します。与謝野晶子が明治三十七年(一九〇四年)に詠んだ「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」は特に有名ですが、この像は釈迦ではなく阿弥陀如来です。
【地震への備え(一九二三年〜一九六一年)】
大正十二年(一九二三年)の関東大震災で台座が破損し、像は前方へずれました。昭和三十五年から三十六年(一九六〇〜六一年)にかけての昭和大修理では、首の部分を補強し、台座と像の間に免震のための構造を設けています。地震の多い土地で八百年近く立ち続けてきた背景には、こうした手当ての積み重ねがあります。
【現代】
国宝に指定されています。二十円で像内に入ることができ、鋳造の継ぎ目や補強の跡を間近に見られます。
💬 コメント
屋根がないというのが最初は不思議でしたが、五百年以上そのままだと聞いて、それがこの大仏の個性なのだと思うようになりました。
江ノ電で行きました。長谷寺と合わせて回るコースが人気のようで、私もそうしました。
外国人観光客がとても多く、記念撮影の順番待ちができていました。世界的に知られた顔なのだと実感します。
背中側から見上げると、前傾している姿勢がよく分かります。参拝者と目が合うように計算されていると聞いて、意図の細かさに驚きました。
地震で台座がずれたことがあると聞いて、免震の仕組みが施されていると知りました。八百年近く立ち続けているのはそういう工夫があってこそなのですね。
大仏の中に入れると知らずに行ったので、驚きました。継ぎ目が横縞になっていて、鋳造の様子がよく分かります。
与謝野晶子の歌碑がありました。釈迦ではなく阿弥陀如来だと知って、有名な歌が実は勘違いだったのかと少し面白く感じました。
奈良の大仏と比べるとやや小さいですが、屋外にあるぶん、空を背景にした写真が撮りやすいです。
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