興福寺
こうふくじ
概要
藤原氏の氏寺として栄えた法相宗の大本山で、創建は天智天皇八年(六六九年)に遡ります。奈良のシンボルである五重塔は高さ約五十メートル、国内で二番目の高さを誇ります。国宝館に安置される阿修羅像をはじめ、所蔵する国宝の数は日本有数。猿沢池の水面に映る五重塔の姿は、奈良を象徴する景観として親しまれています。
歴史
興福寺の起源は天智天皇八年(六六九年)、藤原鎌足の病気平癒を願って夫人の鏡女王が建てた山階寺に遡ります。
【山階寺から興福寺へ(六六九年〜七一〇年)】
山背国の山階に建てられた山階寺は、壬申の乱の後に藤原京へ移されて厩坂寺と改称されました。和銅三年(七一〇年)の平城京遷都に伴い、鎌足の子・藤原不比等が現在の地へ移し、興福寺と名付けます。以後、藤原氏の氏寺として、また法相宗の学問寺として、飛躍的に発展していきました。
【奈良・平安時代(七一〇年〜一一八五年)】
藤原氏が摂関政治によって権勢を極めるにつれ、興福寺もまた南都七大寺の一つとして絶大な影響力を持つようになります。天平六年(七三四年)に光明皇后の発願で建立された西金堂には、乾漆造の阿修羅像を含む八部衆・十大弟子像が安置されました。十代の少年のような面差しに憂いを湛えた阿修羅像は、今日でも国宝館で最も多くの人を惹きつけています。平安期には春日大社と一体化して大和国一国を支配下に置き、多数の僧兵を擁して朝廷にも圧力をかける存在となりました。
【焼失と復興(一一八〇年〜一六〇三年)】
治承四年(一一八〇年)の平重衡による南都焼き討ちで、東大寺とともに伽藍のほとんどを失います。しかし藤原氏の支援を受けて速やかに再建が進み、鎌倉期には運慶らによって多くの仏像が造り直されました。この時期に生まれた仏像群が、現在の興福寺が誇る彫刻コレクションの中核をなしています。中世を通じて興福寺は大和国の実質的な支配者であり続けました。
【江戸時代と明治の危機(一六〇三年〜一九〇〇年頃)】
江戸幕府のもとでは石高を大きく減らされ、享保二年(一七一七年)の火災で焼けた中金堂などは再建されないまま長く仮堂が置かれました。明治の神仏分離と廃仏毀釈は決定的な打撃となり、僧は還俗させられ、寺領は没収され、五重塔さえ売りに出されたと伝えられます。境内は塀が取り払われて奈良公園に取り込まれ、寺と公園の境が曖昧な現在の景観はこのときに生まれたものです。
【現代(一九〇〇年頃〜)】
明治末期から復興が進み、昭和三十四年(一九五九年)には国宝館が開館して寺宝の保存と公開が本格化しました。平成十年(一九九八年)に「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。平成三十年(二〇一八年)、三百年ぶりに中金堂が天平様式で再建され、創建当時の伽藍の姿が少しずつ取り戻されつつあります。
💬 コメント
東大寺からは歩いて十数分です。東大寺だけ見て帰る人が多いのですが、ここを外すのはもったいない。
夕方になると鹿が塔の下に集まってきます。不思議な光景なので、この時間帯が一番おすすめです。
藤原氏の氏寺で、最盛期には奈良の広い範囲を占めていたそうです。今は規模こそ小さくなりましたが、あの気品は残っています。
中金堂は二〇一八年に再建が完了したばかりで、色がまだ新しいです。古い建物と並んでいると、千年の時間の幅が見えてきます。
国宝館の阿修羅像こそ本命でした。三面六臂、少年のような顔に何とも言えない表情が浮かんでいて、その前から動けなくなります。
二度目の訪問で、目的は阿修羅像だけでした。前回は駆け足だったので、今回は三十分近く眺めていました。
五重塔は奈良の象徴です。夕暮れ時に猿沢池のほうから眺めると、水面に塔影が落ちて、とても静かな気持ちになります。
国宝館との共通券を買うと少し安くなります。館内は撮影禁止ですが、そのぶん集中して見られました。
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