金閣寺
きんかくじ
📍 所在地
京都府京都市北区金閣寺町1
📞 電話
075-461-0013
🙏 ご本尊・ご祭神
アミターバ仏(阿弥陀仏)
🏯 宗派
臨済宗相国寺派
概要
正式には鹿苑寺といい、金閣はその舎利殿を指します。三層構造の楼閣の上二層に金箔を貼った姿は、鏡湖池の水面に映り込んで二つの金閣を作り出します。各層で建築様式が異なり、一層は寝殿造、二層は武家造、三層は禅宗仏殿造という構成そのものが、権力と信仰の重なりを表しています。臨済宗相国寺派の禅寺であり、世界文化遺産に登録されています。
歴史
鹿苑寺は応永四年(一三九七年)、室町幕府三代将軍・足利義満によって創建されました。金閣はその舎利殿として建てられたものです。
【北山殿の造営(一三九七年〜一四〇八年)】
もとは鎌倉時代の公卿・西園寺公経の別荘「北山第」があった地で、義満はこれを譲り受けて大規模な山荘「北山殿」を造営しました。将軍職を子の義持に譲った後も実権を握り続けた義満は、ここを政治と外交の舞台としました。明との勘合貿易の使節もこの地で迎えています。舎利殿の三層それぞれに異なる様式を用いた構成には、公家・武家・禅宗という当時の権威をすべて自らの下に置くという意識が読み取れます。
【禅寺への転換(一四〇八年〜一五〇〇年頃)】
応永十五年(一四〇八年)に義満が没すると、遺言により北山殿は禅寺に改められ、義満の法号「鹿苑院」から鹿苑寺と名付けられました。夢窓疎石を開山に迎え、相国寺の塔頭として位置づけられます。北山殿の建物の多くは解体され他所へ移されましたが、舎利殿だけが残されました。義満の時代に花開いた北山文化は、この建築に最もよく体現されています。
【戦国から江戸時代(一五〇〇年〜一八六八年)】
応仁の乱では西軍の陣が置かれ、境内の建物の大半が焼失しましたが、舎利殿は難を逃れました。江戸時代に入ると幕府の保護のもとで修理が重ねられ、慶安二年(一六四九年)には大がかりな修復が行われています。この頃には既に京都の名所として知られ、多くの紀行文や絵図に描かれるようになっていました。
【焼失と再建(一九五〇年〜一九五五年)】
昭和二十五年(一九五〇年)七月二日未明、寺に所属していた学僧の放火により舎利殿は全焼し、国宝であった足利義満像もろとも灰燼に帰しました。この事件は社会に大きな衝撃を与え、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』など、多くの文学作品の主題となりました。焼失から五年後の昭和三十年(一九五五年)、明治期の詳細な修理記録と古図をもとに創建当初の姿で再建されます。
【現代(一九五五年〜)】
昭和六十二年(一九八七年)には、それまでの約五倍の厚さとなる金箔約二十万枚を用いた「昭和の大修復」が行われ、現在の輝きが生まれました。平成六年(一九九四年)に「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されています。年間を通じて国内外から多くの参拝者が訪れ、特に雪化粧をまとった冬の金閣は格別の人気を集めています。
💬 コメント
雪の翌日、晴れた日に当たりました。金色の屋根に雪が積もっていて、これまで見た中で一番美しい姿でした。
順路は一方通行で戻れないので、一番よく見える場所では少し長めに立ち止まることをおすすめします。
今の金閣は一九五五年の再建で、一九五〇年に焼失しています。その経緯を知ってから見ると、あの金色が少し違って見えました。
子どもを連れて行ったら、なぜ金色なのかと何度も聞かれました。帰ってから足利義満のことを調べて話してやりました。いい勉強になりました。
鏡湖池に映る金閣を最初に見たとき、しばらく言葉が出ませんでした。本当にすごいのは金箔そのものより、水面に映るもう一つの金閣のほうです。
近くの龍安寺と合わせて回りました。金と石庭、両極端の美しさを同じ日に見られるのでおすすめです。
三層はそれぞれ様式が違い、一層が寝殿造、二層が武家造、三層が禅宗仏殿になっています。それを知って見ると印象がまるで変わります。
とにかく人が多く、特に午前中は混みます。人の入らない水面を撮りたいなら開門と同時に入るしかありません。
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