春日大社
概要
神護景雲二年(七六八年)の創建と伝わる、藤原氏の氏神を祀る古社です。朱塗りの社殿と深い緑の原始林の対比、そして参道と回廊を埋める約三千基の燈籠が知られます。石燈籠は参道に、釣燈籠は回廊に吊るされ、いずれも人々が願いを込めて奉納したもの。二月の節分と八月の中元の年二回、そのすべてに火が入る万燈籠が行われます。境内背後の春日山原始林は千年以上にわたり伐採が禁じられてきました。
歴史
春日大社は神護景雲二年(七六八年)、藤原永手によって現在の社殿が造営されたと伝えられます。
【鎮座(七一〇年〜七六八年)】
平城遷都にあたり、藤原不比等が藤原氏の氏神である武甕槌命を常陸の鹿島神宮から迎え、御蓋山に祀ったことに始まると伝えられます。武甕槌命が白鹿に乗って来られたという伝承から、奈良では鹿が神の使いとして手厚く保護されるようになりました。奈良公園の鹿がおよそ千三百年にわたって人と共存してきた背景には、この信仰があります。神護景雲二年(七六八年)、称徳天皇の勅により四殿からなる社殿が造営されました。
【神仏習合と興福寺(七六八年〜一八六八年)】
隣接する興福寺と一体の存在として「春日興福寺」と呼ばれ、藤原氏の権勢とともに勢力を拡大しました。神木を掲げて朝廷に強訴する「神木動座」は、平安期の朝廷を悩ませた事件として記録に残ります。神と仏を分けない信仰形態が千年にわたって続きました。
【式年造替】
二十年ごとに社殿を建て替える、あるいは修理する式年造替の制度が平安時代から今日まで続いています。伊勢神宮のように隣地へ新造するのではなく、既存の社殿を修理して蘇らせる方式で、令和二年(二〇二〇年)までに六十回を数えました。建物そのものではなく、それを維持する技術と作法を千二百年伝えてきたことに、この制度の意味があります。
【三千基の燈籠】
石燈籠と釣燈籠あわせて約三千基が奉納されています。最古のものは平安末期に遡り、大半は江戸時代のものです。商人、武士、庶民が思い思いに寄進したもので、竿の部分には奉納者の名が刻まれています。節分と中元の万燈籠では、この全てに火が灯されます。
【明治の神仏分離(一八六八年〜一九〇〇年頃)】
明治の神仏分離令により、千年続いた興福寺との一体性は断ち切られました。境内にあった仏教施設は撤去され、社名も春日神社と改められます。昭和二十一年(一九四六年)に春日大社の名に復しました。
【現代(一九〇〇年頃〜)】
背後に広がる春日山原始林は、承和八年(八四一年)以来伐採と狩猟が禁じられてきた森で、都市に隣接しながら原生林が残る稀有な例です。平成十年(一九九八年)、社殿と原始林をあわせて「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
💬 コメント
二十年ごとに社殿を建て替えるのではなく修理して蘇らせると聞いて、伊勢とは考え方が違うのだと知りました。
参道の石燈籠がどこまでも続いていて、圧倒されます。全部で三千基あると聞いて納得しました。
燈籠の竿に奉納した人の名前と年号が刻まれています。江戸時代の商家の名前を探しながら歩くのが楽しい。
回廊の釣燈籠が並ぶ一角は、暗い場所に灯りを入れて万燈籠の様子を再現しています。実際の万燈籠に行けなくても雰囲気が味わえます。
興福寺から歩いて向かいました。明治まで一体の存在だったと知ると、この距離の近さにも意味があります。
参道は鹿だらけです。餌を持っていなくても寄ってきますが、おとなしいので怖くはありません。
背後の春日山は千二百年近く伐採が禁じられてきたそうです。街のすぐ隣に原生林があるというのは考えてみると異常なことです。
朱色の社殿と背後の原始林の緑の対比が本当にきれいです。晴れた日に行くことをおすすめします。
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