法隆寺
概要
推古天皇十五年(六〇七年)の創建と伝わり、西院伽藍の金堂・五重塔は現存する世界最古の木造建築群とされます。柱の中ほどが膨らむエンタシス、卍崩しの高欄、雲斗雲肘木といった飛鳥時代の様式が、そのままの姿で千三百年以上立ち続けてきました。夢殿の救世観音、百済観音像をはじめ、国宝の数は日本の寺院で群を抜きます。日本で最初に世界文化遺産に登録された建造物です。
歴史
法隆寺は推古天皇十五年(六〇七年)、聖徳太子と推古天皇によって創建されたと伝えられます。
【創建(六〇七年頃)】
用明天皇が自らの病気平癒を願って寺と仏像の造立を発願しましたが、志を果たせないまま崩御しました。その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子が完成させたのが法隆寺です。金堂の薬師如来像の光背銘にこの経緯が刻まれており、寺の成り立ちを今に伝えています。境内は聖徳太子が営んだ斑鳩宮に隣接する地に開かれ、太子の私的な信仰と学問の場としての性格を強く帯びていました。
【再建をめぐる論争(六七〇年〜)】
『日本書紀』は天智天皇九年(六七〇年)に法隆寺が一屋も残さず焼けたと記しています。一方で現存する西院伽藍の建築様式は明らかに飛鳥時代のもので、記録と現物が食い違う。この矛盾は明治以来「法隆寺再建・非再建論争」として長く争われました。決着がついたのは昭和十四年(一九三九年)、境内の若草伽藍跡から創建当初の伽藍の遺構が発掘されたときです。焼けたのは若草伽藍であり、現在の西院伽藍はその後に再建されたもの、というのが今日の通説です。ただし再建とはいえ七世紀後半の建築であり、世界最古の木造建築であることに変わりはありません。
【奈良・平安時代(七一〇年〜一一八五年)】
天平十一年(七三九年)、行信僧都が斑鳩宮の跡地に夢殿を中心とする東院伽藍を建立しました。聖徳太子を追慕する信仰の高まりを背景としたもので、以後、法隆寺は太子信仰の中心地となっていきます。平安期に入ると太子は救世観音の化身と考えられるようになり、貴族から庶民まで幅広い層の参詣を集めました。
【中世(一一八五年〜一六〇三年)】
鎌倉期には太子信仰がさらに広まり、聖徳太子の生涯を描いた絵伝が数多く制作されました。寺は東大寺や興福寺のような武力を持たなかったため、南都焼き討ちの惨禍を免れています。この幸運が、飛鳥の建築と仏像を今日まで残す結果となりました。一方で経済基盤は弱く、伽藍の維持には常に苦労が伴いました。
【江戸時代(一六〇三年〜一八六八年)】
慶長年間に豊臣秀頼の援助で大がかりな修理が行われ、元禄期には江戸幕府の支援による大修理が実施されました。木造建築を千年単位で保たせてきたのは、こうした数十年から百年ごとの解体修理の積み重ねです。
【近代から現代(一八六八年〜)】
明治の廃仏毀釈で困窮した寺は、明治十一年(一八七八年)に宝物三百点余りを皇室へ献納し、下賜金を維持費に充てました。これが現在の東京国立博物館法隆寺宝物館の所蔵品です。明治十七年(一八八四年)には、長らく白布に包まれ絶対の秘仏とされていた夢殿の救世観音がフェノロサと岡倉天心によって開扉されました。昭和二十四年(一九四九年)、金堂の解体修理中に火災が発生し、飛鳥時代の壁画が焼損します。この事故が翌年の文化財保護法制定につながり、出火した一月二十六日は文化財防火デーと定められました。平成五年(一九九三年)、日本で最初の世界文化遺産に登録されています。
💬 コメント
柱の中ほどが膨らんでいるのがはっきり見て取れます。ギリシャの神殿と同じ手法が奈良にあるというのは、何度聞いても不思議です。
千三百年前の建物が今も普通に立っているというのが、現地に行くまで実感できませんでした。回廊の柱に触れると、その古さがようやく身体で分かります。
百済観音の細長い立ち姿が忘れられません。大宝蔵院は照明も抑えてあって、じっくり向き合えました。
拝観料は決して安くありませんが、あれだけの国宝を維持していくことを考えれば当然だと思います。
斑鳩の里はのどかで、参道の外に出ると田んぼが広がっています。奈良市街の混雑とは別世界でした。
西院から東院まで歩くと、境内の広さがよく分かります。全部きちんと見るなら二時間は見ておいたほうがいい。
昭和二十四年の火災で焼けた金堂壁画のことを知ってから訪れると、見え方が変わります。焼損した壁は今も保存されているそうです。
夢殿の救世観音は公開期間が限られます。春と秋だけなので、拝観したい方は日程を確認してから行ってください。
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