元興寺

概要
崇峻天皇元年(五八八年)に蘇我馬子が建てた法興寺(飛鳥寺)を、平城遷都に伴って移した寺です。日本最古の本格的寺院の系譜を引きます。極楽坊本堂と禅室の屋根には、飛鳥から運ばれた行基葺きの瓦が今も葺かれており、千四百年前に焼かれた瓦が現役で雨を受け続けています。かつては南都七大寺の一つとして広大な寺域を誇りましたが、現在は奈良町の一角に静かに佇みます。
歴史
元興寺は崇峻天皇元年(五八八年)に飛鳥で創建された法興寺を前身とし、養老二年(七一八年)に平城京へ移されました。
【飛鳥寺として(五八八年〜七一〇年)】
蘇我馬子が発願し、百済から招いた技術者によって建立された法興寺は、日本で最初の本格的な伽藍を備えた寺院です。塔を三つの金堂が囲む一塔三金堂式の配置で、それまでの日本になかった建築技術と造瓦技術がこの造営を通じて伝えられました。日本の寺院建築は事実上ここから始まります。
【平城京への移転(七一八年)】
平城遷都に伴い、養老二年(七一八年)に新京へ移され、元興寺と名を改めました。飛鳥の旧地には本元興寺(現在の飛鳥寺)が残されています。移転にあたっては建物の部材や瓦も運ばれたと考えられており、極楽坊本堂と禅室の屋根に残る行基葺きの瓦は、飛鳥時代に焼かれたものと判明しています。千四百年を経てなお屋根に載り続ける瓦は、世界的にも例がありません。
【奈良・平安時代(七一八年〜一一八五年)】
南都七大寺の一つに数えられ、東大寺や興福寺と並ぶ大寺として栄えました。三論宗と法相宗の学問の拠点となり、多くの学僧を輩出しています。往時の寺域は現在の奈良町一帯のほぼ全域に及びました。
【衰退(一一八五年〜一四五一年)】
藤原氏という強力な後ろ盾を持つ興福寺と異なり、元興寺は次第に経済基盤を失っていきます。荘園を手放し、伽藍の維持もままならなくなりました。宝徳三年(一四五一年)の土一揆による火災で金堂をはじめ主要伽藍を焼失し、大寺としての元興寺は事実上ここで終わります。
【極楽坊としての存続(一四五一年〜一八六八年)】
焼け残った僧坊の一部が、智光曼荼羅を本尊とする浄土信仰の道場「極楽坊」として存続しました。庶民の信仰に支えられたこの小さな堂が、南都七大寺の法灯を今日まで伝えることになります。かつての広大な寺域には町家が建ち並び、現在の奈良町の町並みが形づくられていきました。
【近代から現代(一八六八年〜)】
昭和十年代までは荒廃が進んでいましたが、戦後の発掘調査と修理によって飛鳥時代の瓦や部材の価値が明らかになり、保存が進みました。極楽坊本堂と禅室は国宝に指定されています。平成十年(一九九八年)、「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
💬 コメント
南都七大寺の一つだったのに、今はこの規模というのが、かえって歴史の長さを感じさせます。
奈良町の細い路地を抜けた先にあります。かつてはこの町全体が寺域だったと知って、歩き方が変わりました。
ならまち散策の途中に寄るのがおすすめです。周りの古い町家と合わせて歩くと楽しい。
本堂の屋根瓦をよく見ると、一部だけ色と形が違います。あそこが飛鳥から運ばれた行基葺きの部分だそうです。
屋根の瓦が飛鳥時代のものだと聞いて、しばらく見上げていました。千四百年前の瓦がまだ現役で雨を受けているというのが信じられません。
収蔵庫の五重小塔は高さ五メートルほどの模型ですが、細部まで実物どおりに造られていて見応えがありました。
観光客は少なく、静かに拝観できます。東大寺の人出に疲れたあとに寄るとちょうどいい。
境内の石仏群が独特の雰囲気です。彼岸花の季節に行くと、赤い花と石仏が並んでいてよかった。
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