延暦寺
概要
延暦七年(七八八年)、最澄が比叡山に開いた天台宗の総本山です。特定の一堂ではなく、東塔・西塔・横川の三つの地域に百近い堂宇が散在する山全体が寺域という、日本の他の大寺院とは異なる構造を持ちます。法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など、後に鎌倉新仏教を開く僧たちの多くがこの山で学びました。「日本仏教の母山」と呼ばれる所以です。根本中堂の内陣には、開創以来一度も消えたことがないとされる「不滅の法灯」が灯り続けています。
歴史
延暦寺は延暦七年(七八八年)、最澄によって比叡山に一乗止観院が建てられたことに始まります。
【最澄の開創(七八八年〜八〇六年)】
最澄は近江国に生まれ、若くして比叡山に入って修行しました。延暦四年(七八五年)、山中に小さな草庵を結び、自ら刻んだ薬師如来像を本尊として祀ります。延暦二十三年(八〇四年)、最澄は遣唐使とともに唐へ渡り、天台山で天台教学を学んで帰国しました。翌年、桓武天皇の庇護のもとで天台宗が公認され、比叡山の寺は国家の仏教教育機関としての地位を得ます。「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」という最澄の言葉は、地味であっても自らの持ち場を照らす人材こそが国の宝であるという教えとして、今も広く引かれます。
【日本仏教の母山】
比叡山では、当時の他の宗派と異なり、天台の教学だけでなく密教、禅、念仏までを幅広く学ぶことができました。この総合的な学びの場から、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)といった、後に鎌倉新仏教を開く僧たちが次々と生まれます。日本仏教の主要な宗派の開祖の多くが、若き日に比叡山で学んだという事実が、この山を「日本仏教の母山」たらしめています。
【僧兵と強訴(平安時代〜戦国時代)】
平安中期以降、延暦寺は広大な荘園と強力な僧兵を擁するようになり、しばしば神輿を掲げて朝廷に強訴を行いました。白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、これぞ朕が心にままならぬもの」と嘆いたという逸話は、当時の延暦寺の権勢の大きさを物語ります。
【信長の焼き討ち(一五七一年)】
元亀二年(一五七一年)九月、織田信長は浅井・朝倉氏に加担したことなどを理由に比叡山を包囲し、根本中堂をはじめ山上の建物のほとんどを焼き払い、僧俗を問わず多数を殺害しました。日本仏教史上最大級の弾圧の一つとされます。この焼き討ちにより、延暦寺は開創以来蓄積してきた堂宇と文物の大半を一夜にして失いました。
【豊臣・徳川による再興(一五八六年〜一六四二年)】
信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康の援助により再建が進められます。現在の根本中堂は寛永十九年(一六四二年)、三代将軍徳川家光によって再建されたものです。
【不滅の法灯】
最澄が本尊の前に灯した灯明は、信長の焼き討ちの際に一時的に他の寺へ分灯していたものを再び持ち帰る形で、開創以来一度も絶えることなく受け継がれてきたとされます。油を絶やさぬよう毎日の点検が欠かせず、「油断」という言葉の語源はこの灯明の管理に由来するという説があります。
【現代】
平成六年(一九九四年)、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。東塔・西塔・横川の三塔十六谷にまたがる広大な山内は、今も僧の修行の場であり続けています。
💬 コメント
東塔、西塔、横川と三つのエリアに分かれていて、全部回るとかなりの距離になります。バスを使いながら一日がかりで巡りました。
京都駅からケーブルカーを乗り継いで行きました。山を登るにつれて空気が変わっていくのが分かります。
法然や親鸞、道元がここで学んだと知ってから来ると、日本仏教の主要な宗派がすべてこの山から生まれたことに驚かされます。
琵琶湖を見下ろす景色が素晴らしい場所がいくつもあります。信仰の場であると同時に、眺望の良さにも驚きました。
根本中堂の中に入ると、不滅の法灯がゆらめいていました。開創以来一度も消えていないと聞いて、その継続に圧倒されます。
信長の焼き討ちの話を聞いてから境内を歩くと、静かな杉木立の中にも激しい歴史があったのだと実感します。
横川まで足を延ばす人は少ないようで、静かに参拝できました。東塔の賑わいとは対照的でした。
千日回峰行という荒行の話を聞いて、この山の修行の厳しさを知りました。今も続いているというのが信じられません。
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