永平寺
概要
寛元二年(一二四四年)、道元禅師が越前の山中に開いた曹洞宗の大本山です。「永平」の名は、仏教が中国に伝わった後漢の元号「永平」に由来し、仏法が永久に平らかであるようにとの願いが込められています。山門から仏殿、法堂へと続く伽藍を回廊が結び、今も二百人近い雲水が起床から就寝まで厳格な規律のもとで修行に励んでいます。座禅だけでなく、食事、掃除、入浴のすべてが修行とされる只管打坐の道場です。
歴史
永平寺は寛元二年(一二四四年)、道元禅師によって越前国志比庄に開かれました。
【道元の入宋と帰国(一二二三年〜一二二七年)】
道元は貞応二年(一二二三年)、宋へ渡って各地の禅林を訪ね歩きました。天童山で如浄禅師に出会い、その門下で厳しい修行を積みます。ある夜、隣で座禅する僧が居眠りをして如浄に叱責される様子を見て、道元は「身心脱落」の境地を得たと伝えられます。安貞元年(一二二七年)に帰国した道元は、悟りの内容を問われて「眼横鼻直」(目は横に、鼻は縦についている、ただそれだけのことだ)と答えたという逸話が知られています。特別な悟りの言葉を期待した人々を煙に巻くような、あるがままを見よという教えでした。
【只管打坐】
道元が説いたのは、坐禅そのものが悟りの手段ではなく、坐禅している姿こそが仏の姿である「只管打坐」の思想です。悟りを得るための修行ではなく、修行そのものが悟りの実現であるという考え方は、それまでの仏教にはない独自の立場でした。
【興聖寺から永平寺へ(一二三三年〜一二四四年)】
帰国後、道元はまず京都の深草に興聖寺を開きましたが、既存の仏教勢力からの圧迫を受け、より厳しい修行環境を求めて越前国へ移ることを決意します。寛元二年(一二四四年)、地頭の波多野義重の支援を得て大仏寺を建立し、後にこれを永平寺と改めました。都から離れた山中を選んだのは、権力や俗世との関わりを断ち、ひたすら修行に専念する場を求めたためとされます。
【厳格な規律の継承(中世〜現代)】
永平寺では今日まで、起床から就寝まで、食事、作務(掃除や労働)、入浴に至るあらゆる行為が修行と位置づけられています。道元が定めた『典座教訓』は、食事を作る係である典座の心構えを説いたもので、料理という日常の行為の中に仏道修行を見出す思想は、日本の食文化にも影響を与えたとされます。江戸時代、永平寺は総持寺(現在は横浜市鶴見に所在)とともに曹洞宗の両大本山と定められ、以後この体制が続いています。
【近代から現代(一八六八年〜)】
明治以降も厳格な修行道場としての性格を保ち続け、現在も二百人前後の雲水(修行僧)が寺内で共同生活を送りながら修行に励んでいます。一般の参拝者や宿泊者向けに座禅体験を受け入れる制度も設けられており、俗世を離れた山中の伽藍で禅の実践に触れることができます。七つの堂を結ぶ回廊は「七堂伽藍」と呼ばれ、四季を通じて雪や新緑に彩られる山中の景観と一体となっています。
💬 コメント
七堂伽藍を結ぶ階段と回廊の造りが見事です。雪の季節に行きましたが、白と木の色のコントラストが美しかったです。
永平寺そばを門前でいただきました。修行僧の精進料理の考え方が地元の名物にもつながっているようです。
只管打坐という言葉の意味を、実際にここで座ってみてようやく少し理解できた気がします。
山門をくぐった瞬間から空気が変わります。都会の喧騒から一気に切り離される感覚でした。
道元禅師の「眼横鼻直」という言葉を知ってから訪れました。あるがままを見よという教えが、この山の静けさに重なります。
座禅体験に参加しました。足の痺れと戦いながらも、静けさの中で何かが整理される感じがありました。
回廊を歩く雲水の方々の姿が印象的でした。観光客として見ているだけでも、修行の厳しさが伝わってきます。
二百人近い雲水が今も共同生活をしていると聞いて、観光地である以上に生きている修行の場なのだと実感しました。
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