当麻寺
About
二上山の東麓に建つ古刹で、東西二基の三重塔がともに創建当初のまま残る唯一の寺です。本尊は絵画でも彫刻でもなく、蓮の糸で織られたと伝わる綴織の当麻曼荼羅。これを一夜で織り上げたという中将姫の伝説が古くから語り継がれ、能や浄瑠璃の題材となってきました。毎年五月十四日には、菩薩の面を着けた行列が本堂と娑婆堂の間を練り歩く練供養会式が行われます。
History
当麻寺は推古天皇二十年(六一二年)の草創と伝えられ、白鳳から天平にかけて現在地に伽藍が整えられました。
【創建(六一二年〜七〇〇年頃)】
用明天皇の皇子・麻呂古王が河内に建てた万法蔵院を、その孫にあたる当麻国見が天武天皇の白鳳十年(六八一年)に現在地へ移したと伝えられます。当初は弥勒仏を本尊とする三論宗の寺でしたが、後に真言宗と浄土宗が並び立つ特異な形態となり、今日も両宗の塔頭が共存しています。
【当麻曼荼羅と中将姫(七六三年)】
天平宝字七年(七六三年)、右大臣藤原豊成の娘・中将姫が阿弥陀仏の来迎を願って当麻寺に入り、蓮の茎から取った糸で一夜のうちに曼荼羅を織り上げたと伝えられます。実際の当麻曼荼羅は縦横四メートルに及ぶ綴織で、中国・唐からの請来品とみる説が有力ですが、中将姫の物語は説話や絵巻を通じて広く流布し、能『当麻』、浄瑠璃『鶊山姫捨松』など数多くの作品を生みました。継母に虐げられ山に捨てられた姫が救われるという筋立ては、日本の説話文学の一つの型となっています。
【東西両塔】
東塔と西塔がともに創建期の姿で残るのは、日本でこの寺だけです。東塔は天平期、西塔はやや遅れて平安初期の建立とみられます。両塔は高さも意匠も微妙に異なり、東塔の初層は三間、西塔は四天柱の配置が違うなど、当時の設計思想の変化が読み取れます。
【練供養会式(一〇〇〇年頃〜)】
中将姫が阿弥陀仏に迎えられて往生したという伝承にちなみ、寛弘二年(一〇〇五年)に始まったと伝えられる行事です。本堂と娑婆堂の間に架けられた来迎橋を、二十五菩薩の面と装束を着けた人々がゆっくりと渡ります。極楽からの迎えを目に見える形で演じるこの法会は、日本各地の練供養の原型とされ、千年以上途切れることなく続いてきました。
【中世から現代(一一八五年〜)】
鎌倉期に本堂(曼荼羅堂)が現在の規模に拡張され、以後も浄土信仰の霊場として参詣を集めました。戦国期には近隣の争乱の影響を受けましたが、両塔と本堂は失われていません。本堂、東塔、西塔、金堂、講堂のいずれもが国宝または重要文化財に指定されており、白鳳から鎌倉までの建築が一つの境内に揃う点で稀有な寺院です。
💬 Comments
Sign in to leave a comment